アニメ

イヴの時間

4話目公開
タイトル:NAMELESS
ロボットと人間を区別しない
そんなルールのある喫茶店に、一目でロボットとわかってしまう旧式の廃棄されたロボットが入ってきてしまい...

お話の世界は、ロボット(アンドロイド)が本気を出すと、全く人間と見分けがつかない世界。
通常は、無表情&頭の上に標識をルール化することで人間はロボットがロボットであることを認識している世界。
その喫茶店では不思議なことにロボットはロボットらしく振る舞うことを強要されず
主人公はそこで、ロボットが人間と見分けることができないほどの存在であることを知る。


話は冒頭の一文に集約ですが
これからの伏線は多そう。
なぜ、ロボットのルールをねじ曲げるような喫茶店が存在できるのか?
なぜ、ロボットは本当は人間と見分けがつかないほどの性能を持つのか?
それを示そうかな、という含みを持たせた話でした。

話題変わりまして
産総研理科大のロボットがあまりに気持ち悪いので、どうしたら万人受けするロボットが存在しうるのか。
という思考。

ロボットと動物というのは、創作において扱いがよく似ている存在だと思います。
思考が子供のように単純で、時に感動的な自己献身を見せる。
しかし、少なくとも日本とアメリカにおいて創作(映画など)内でのイメージは大きく違うように思います。
ディズニーやピクサーなどアメリカの子供向けCG映画では、動物がその顔に満面の笑みを浮かべるような描写がよくあります。
たとえリアルな動物でも、唇の端を曲げたり、目の白目が多めで表情豊かなのです。
ところが日本では
ソフトバンクのお父さん犬や、少し前のアイフルチワワのように
顔の造作への改造はせず、普通に犬が口をぱくぱくしている情景になんとなく合いそうなセリフを口の動きと関係なく入れるのです。

ロボットであればアメリカの映画では、よく人間の俳優がやたらたどたどしい言い回しを遣い、要所で皮膚の下の機械を見せることでロボットである証明をします。
しかし、日本ではアトムの時代からロボットでも感情豊かに流暢な言語を喋りますが、日常の習慣を知らなかったり、理性や計算力の高さと合わず子供っぽい非常識さを表現することでロボットであることを感じさせます。
日本におけるロボット感というのは、犬や猫のように、成熟して尚どこか滑稽な(馬鹿な)思考のシンプルさを備える存在として描かれることが多いと思います。
ピクサーのアニメは日本でも受け入れられていますが、本質的にはソフトバンクなどのCMの様に顔の表情の豊かさではなく、思考回路の単純さこそ日本人にロボットを受け入れさせるコツではないかな、と思うのです。
ディズニーで日本人が造ったファイアーボールというCGアニメがあるのですが、それでも登場ロボットは全く表情のないメカっぽい存在で、セリフの流暢さと仕草でもって愛嬌を出しています。
だから、日本人が受け入れやすいロボットの方向性というのは
ホンダのアシモのように、
見た目にはロボットであることが明確で表情の乏しい存在の方が良いのではないかと思う。
メーカーはやはり、マーケティングを意識する以上そこに敏感であるのではないかな?
と。
では、日本はロボット開発のどこに力を注ぐべきかと言えば、
老人介護のロボットであれば
リアルな見た目を追求するのではなく
ハードとしては介護の動作をなめらかにこなしつつ
ソフトとしてはペットの様に知恵の足りない所を効果的に見せることで相手の庇護欲をそそること
つまり、表情なんて示せない方がよいのではないかなぁ
と思うのです。

犬猫に感情移入し愛でることができるのは、彼らが表情、考えていることを伝えることの不器用さ、や知恵で人間の領域を犯さないからだと思うのです。
だから、そこを中途半端に器用にこなしてしまうロボットはむしろ疎まれてしまうのではないか。
そんな持論。